Archive for 1月, 2021

理系廃業宣言

Author: 森由民

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1.
2021年を迎えた現在、相変わらずもっぱら理系的な仕事が主ではありますし、それはそれで手応えもあれば、何よりありがたいことではありますが、自分の仕事のレベルの自己判定は何ほどのものか、そこで自分自身が理科系という観念とどう向き合っているのか、そして、動物園を論じるとは理系の仕事なのか、そういったことを少しばかり丁寧に考えてみようというわけです(※1)。

※1.現在、わたしは日本語の肩書を「動物園ライター」、英語表記を”Zoo Critic”としています。この英語を和訳すると「動物園評論家」になってしまい、その語感・既成の含意は、わたしが考える批評(criticism)とは程遠いものと思われるので、ひとまず日本語では動物園ライターで行きます。
しかし、なすべきことは動物園批評であり、この「批評」をどんな営みとして実現するかが「おまえは何者だ」という問いへの応答にもなるかと考えています。いずれは「動物園批評宣言」を書かなければならないのでしょう。

まず、これは動物園ライターと名乗りはじめた時から言っていることですが、わたしの探究対象は動物園であって動物ではないので、動物の専門家的に扱われるのは御遠慮するしかないということです。また、動物園についてもあくまでも外部のまなざしを保持したいと思っています。この十年あまりの実感として、マスメディアにおいては、わたしのような者はすぐに動物園人や動物学者の代用品としてフィーチャーされてしまいますが、出来る限り、そういうあり方からは遠ざかりたいと思っています。
まがりなりにも理学部生物学科卒業なので、自分に科学的素養がないとは言えません。科学的に誤ったことを吹聴するなら、相応に重い責任を問われなければならないでしょう。しかし、だからこそ単に学歴というだけでなく、自分の見識が所詮は実質的にも学部どまりというのも自覚せざるを得ません。動物園のなかや周辺でその程度のレベルの者が専門家然と得々と語るのは倫理的に間違っていると考えます。
ここで「倫理」というのは単に現状において社会的・文化的に認められているかではありません。つまり、現状の動物園でわたしの知識が通用するかどうかは判定基準にはなりません。倫理との対比で言えば、そういう判別は「道徳」と呼ばれるに過ぎず、倫理とはもっと普遍的かつ内在的な規準です。平たく言えば、自分自身を他者のように論評してみた時、矛盾なく自分を許せるか、という問いになるでしょう。

2.
何やら大仰に振りかぶった話になりましたが、動物について勉強不足だというならば学べばよいではないかという当然の問いに対して、自分が感じている限界のポジティヴな面をお話ししておきましょう。
限界にポジティヴさなどあるのかと、さらに疑問ではありましょうが、手先の不器用さ(大学時代の恩師の折り紙付き)を含めてのネガティヴな限界を痛感する一方、それなら何をするのだ、何が出来るのだ、何をするべきなのだと考える時、エネルギーを注ぐべきなのはどんな方向なのか、ということです。
何につけ、専門研究に在野独自の貢献が期待できる時代とは言い難くなっています。特に理系を中心とした実証科学に顕著と思われますが、動物の話に限るとしても、確かに在野でも一定の学びは出来るし、自分のフィールドをもって観察することも出来る。しかし、その知見を学問の中に位置づけるにはやはりアカデミックな世界と連携していなければなりません。
重箱の隅をつつく学者をよそに、自由な知性をはばたかせる無冠の野人というのは、ただのロマンでしょう。たとえば、自分がフィールドとする森、対象にする動物について、つぶさな観察とかけがえのない体験を持つとしても、その人はそこまでの範囲では研究者とは呼べず、優れたインフォーマントと見なされるべきです。
だいぶ前に、南方熊楠を研究する方とお話ししたことがあります。
「熊楠は当時の欧米の学者たちから、どのように評価されていたのでしょうか」
「インフォーマントでしょうね。和文・漢籍を自由に読みこなせ、それを英語の論文にまとめることが出来るひととして」
身も蓋もないけれど、孤高の天才・不遇な在野の巨人という物語に酔うばかりでは、見失われるものがあるのも事実です。
ニーチェの『悲劇の誕生』は発表当時、文献学の論著として実証性の不足を批判されたと言います。それは彼の著作を哲学なり思想なりとして読む時の価値とは別の話です。

論点を整理しながら、さらにいささか展開してみます。
現代において在野で実証科学を行うことには限界があります。ひとつの具体例として、在野で動物学者等々を標榜することには多くの場合に危うさが伴います。そのような振る舞いは、本来の動物学の普及を妨げこそすれ、推し進めはしないでしょう。
さらに危惧するところとして、世の中は明らかに、在野の知・現場一筋の人の経験知といったものを神話化していますし、そこまでいかないまでも、単純化された知をもっともらしく呈示することは数多のメディアの常套手段です。そこでは学問の慎重さ・歯切れの悪さ・論理の多重性といったものは小難しいと敬遠され、逆に個人的な体験の類いは、その偏狭さの吟味よりも、実感すなわち真実であるかのような話の運びがあるように見受けられます。後でも論じるように、これは物語であり、このような物語と踵を接しつつ、根柢で異なるべきなのが批評の営みであると考えています。
これは、動物園が自らの提示する動物イメージを一般の人々の欲求への迎合として組織してはならない、来園者の常識を揺さぶることでひとまずの反発を買うことを恐れてはならない、ということとも重なるでしょう。しかし一方で自由な学びの提供として、単に権威的な地位に甘んじてもならないというのが、動物園が担う困難な課題となるのですが。

3.
現在、職業上の名乗りを「動物園ライター・Zoo Critic」としているというのは既に御紹介しましたが、動物園ライターという名称自体が、ほぼ自作です(※1)。最初に「動物園ライター」という名刺をつくったのは、2007/12/2に東京農工大学での動物観研究会に初めて参加した際です。
この段階ではそこまでの見通しはありませんでしたが、この会には継続的に加わらせていただいており、同会誌にいくつかの文化批評・文芸批評的なものを発表しています(※2)。
動物園作家という肩書もちらりと考えたのですが、作家という日本語はなんとなく小説を書かなければならない感じですし、しかし、物語めいたものは書く気がしなかったでやめました。いま現在、自分はライターというよりは「作家」だとも思いますが、それはいわば文学的な意味です。ここで「文学」というのは物語を語るに落ちてしまうことに対する抵抗の実践だと考えていますので、いわゆるフィクションを書かず(※3)、取材事実(ノンフィクション)についてもある種の語り方を避けていることと、作家という自覚は一体となっています。

※1.厳密には、宮島康彦『日本カバ物語』(1991年)のなかに、提灯記事書きのようなものではない動物園ライターが生まれるべきだとの記述があります。

※2.昨年発表の最新論文(後述)以外は、こちらからPDFのかたちで御覧いただけます。

※3.いまのわたしには物語を超えた小説を書く能力はありませんし、かといって物語を綴ることはわたしの中の批評家が許しません。
そんなわたしには実作できませんが、既存の範囲で、物語を超える試みとしての小説とはどんなものかについては、※2の批評のいくつかで紹介し論じています。

以下、いくつかの旧作を挙げて、具体的なお話をしてみます。

デビュー作というべきマンガ『ASAHIYAMA 旭山動物園物語』(拙原作、本庄敬・画)は「物語」と題されていますが、もっぱら本庄敬の絵の繊細さによって、単なるストーリーを超えた描写性を獲得しているのではないかと思っています。
わたしとしても、少しでも鮮やかなプロットをつくることを試みました。ここでプロットとは物語ることの整然とした仕掛けではありません。物語は、ある種の経済性を求めます。そして、描写は時にそれに抗う冗長性(redundancy)を孕み得ます。振り返れば本庄の画力に大いに頼っていましたが、ストーリーのところどころ折々で読者に映画のワンショットのようなきらりとした感興を齎し、濃やかな持続性を醸し出せないかと考えてシナリオを書いていたのです。
また、ストーリー自体も、全三冊のうち後半二冊はもっぱら連作短篇的なのですが、都度々々、何か先への不確定な広がりを感じさせる、あくまでもとりあえずの結末に出来ないかと趣向を凝らしたつもりです。
不躾な自画自賛めきますが(繰り返しながら、絵は描いていませんが)、ストーリーやテーマに還元できない魅力や品格においては、いままで動物園をモチーフに書かれたマンガの中でも指折りと自負しています。

二つの児童向けノンフィクション『ひめちゃんとふたりのおかあさん』『約束しよう、キリンのリンリン』についても描写するとはどういうことかと考え続けました。
また、マニュアル的ということではありませんが、飼育作業等の事実性(取捨選択ひいては脚色は行なっていますが)が孕む、単に叙情だけではないロジカルさといったものが読み取れるようにしなければと念じていました。実際問題としても「愛だけじゃ飼えない、愛がなければ飼う資格はない」だと思いますし。
なかなか思うには任せませんでしたが、ストーリーに要約できるという意味での物語性には抗いたかったし、登場する動物や、フィクティヴなものを交えながらも描かせていただいた人物の方々には心からの敬愛の念を表しますが、感動物語やヒーロー・ストーリーに終わっては動物園を描いたことにはならないと考えていました。その考えはいまも変わっていません。
さらに、わたしの本が流通することで動物園に関する既存の図式が強化されるだけなら、何のために書いているのかわからないと、これもずっと思っていることです。これは、既に記した“Critic”が「評論家」と訳されることへの危惧とつながります。日本において、評論家とは人びとの期待の水準に合わせた物語の供給者であることがほとんどなのではないでしょうか。だからこそ、テレビのバラエティなどでも、お手頃なコメンテーターになれるんじゃないか。こういうことはあまり軽薄に言い散らすべきではないので、ここまでにしますが。

4.
>すべてが、なんて退屈だろう。しかし、なぜ、こんなに、なつかしいのだろう。<(坂口安吾「青鬼の褌を洗う女」)  以下では、一番決定的に理系ならざる動物園ライターでありたいと思う部分について記します。いままでの、批評云々のお話からはいささか逸脱することにもなりますが。  わたしの仕事は動物園・水族館を取材して記事を書くこと、趣味は動物園や水族館でぼぉとすること。そんなふうに自己紹介していますが、本当にやりたいのはただただぼぉとすることなのです。勤勉なひとならば、そんな過ごし方には次の活動に向けてのレクリエーション(recreation)以外の価値を認めないでしょうし、しばらくの休憩はともあれ、そんなことを続けていたらいずれ退屈してしまうだろうと言うのではないかと思います。  しかし、まさに没価値に深い退屈に浸ること、それがわたしの求めるものです。  ハイデガーは退屈に三つの形式を認めています。 >ハイデガーの言う[退屈の]第一段階とは「或るものによって退屈させられる」ということであり、その典型は何かを待っているときに生じる。田舎の駅で列車を待っているとき、駅舎や風景全てが私を退屈させる。[……]ハイデガーはここから、役に立たない事物によって「空虚に放置される」ことと、滞る中間的時間経過によって「引き留められる」ことを、退屈の本質的な構成要素として取り出す。そしてさらに、この二つの構造契機の関係をより掘り下げるため、「何かに際して退屈する」という第二の形式が問題にされる。夕食会への招待を例にとると、そこでは食事も会話も音楽も良い趣味で、一同はくつろいだ一時を過ごして別れるのだが、しかし家に帰ってやりかけの仕事に目を通したとき、ふと気付いてしまう、自分は今晩の集まりに際してやはり退屈していたのではないか、と。
第二の形式においては一見、退屈させるものも退屈しのぎも見当たらないが、それもそのはずである。何しろ、この夕食会そのものが退屈しのぎであり、退屈させるのは私たちが時間を待っているというそのことに他ならないのだから。[……]それではしかし、このような一時がいつどこでどれだけ続くのか特定できなくなり、誰が何のためにそれを用意したのかもわからなくなるとすれば、いったいどうなるのか。ハイデガーによると、「なんとなく退屈だ」という第三の「深い」退屈が生じるのは、まさにこのような時なのである。<(串田純一(2017)『ハイデガーと生き物の問題』,法政大学出版局:79-80)  そして、ハイデガーはこう記します。 >[……]深い退屈において自らを顕わにする「全体における」のこの広がり、これを私たちは世界と名付ける。[……]< (ハイデガー「形而上学の根本概念」=串田前掲書:82※1)

 

※1.以下、ハイデガーの引用はすべて同様です。

 

しかし、ハイデガー自身、ここで何かを解き明かしているわけではないようです。

>[……]ハイデガーが[深い退屈の説明として]使っている「瞬間」や「繋縛」、「世界」といった諸概念は、それによって私たちが何かを理解できるようなものではなく、逆に、深い退屈のただ中でその気分を言語的に解釈した結果として初めて理解可能になる言葉にほかならない[……]ハイデガーは、哲学・形而上学の根本概念においてはこうした事態が常に起こっていると言い、だからこそそうした諸概念に関する理解を直接与えることはできず「形式的告示[formale Anzeige]」をするに留まらざるを得ないと述べている。<(串田前掲書:84)

>深い退屈を呼び覚ますことができないという事態は、哲学者の能力や方法の不全によるのではなく、気分というものの存在論的性格に由来している。この「根本気分を現に生起させることができない」という点こそ、後にハイデガーが振り返ったように言語の――少なくとも概念的なそれの――本質的な限界の一つなのである。<(同上:87-88)

つまり、わたしたちは言語によって世界を認識しているが、そのこと自体によって世界から隔てられているということです。ハイデガーは存在者と世界の関係について、これもまた三つのあり方を挙げています。 >人間は、単に世界の一部であるだけでなく、世界を「持つ」という仕方において、世界の主人であり下僕である。人間は世界を持つ。では人間以外の存在者、人間と同じようにやはり世界の一部であるもの、動物・植物および例えば石のような物質的な物においてはどうなっているのだろうか。[…]ここには、未だ粗雑にではあるが、いくつかの区別が見られる。この区別を私たちは三つのテーゼによって定式化する。一、石(物質的なもの)は世界を持たない[weltlos]。二、動物は世界が貧しい[weltarm]。三、人間は世界を形成している[weltbildend]。<(ハイデガー=同上:22-23※1)

 

※1. このハイデガーの「動物世界論」とでも言うべきものは、以下の拙論でも江國香織の一冊の長篇小説を批評するにあたっての軸となっています。 森由民(2020)「隙間の世界 江國香織『ヤモリ、カエル、シジミチョウ』をめぐって」, 『動物観研究』No.25:31-40

 

ここには、ハイデガーの人間以外の動物に関する有名なテーゼ(世界の貧しさ)が含まれています。ともすると単純に人間至上主義で他の動物を貶めているように映りますし、実際、根本においてはそうなのではないかとジャック・デリダは批判していますが、少なくとも表面的な印象だけでハイデガーのことばを分かった気になってはいけません。ここでの「動物の世界の貧しさ」とは、一方において、ことばを持つ人間が失っている豊かさとしても読めるのです。

>[……]トカゲが岩の上に横たわっている、と私たちが言うとき、私たちは「岩」という語を抹消するべきであろう、トカゲがその上に横たわっているその物は、確かに何らかの仕方でトカゲに与えられてはいるが、しかし岩として認知されているわけではない、ということを示唆するために。この抹消が意味するのは、単に何か違った物が、何か違った物として出会われているということではなくて、そもそも存在者として接近できていない、ということなのである。<(ハイデガー=同上:142-143)

>ハイデガーは「岩」という語を「抹消すべきであろう」と言うが、実際には抹消していないし、それは全く不可能なことである。なぜなら、人間はそもそも「岩」というような動物自身には開示されていない存在者の概念を通じてしか、動物について理解も言明もすることはできないからである。そしてその際には、「諸衝迫の脱抑止の環」が持つ固有の開放性と全体性が必ず何かしら制限され、不十分な把握しか可能にはならない。<(同上:143)

ここでの、人間以外の動物がその開放性・全体性の中にあるとされる「諸衝迫の脱抑止の環」について少し補いましょう。たとえば、蜜を吸うミツバチです。

>ハイデガーはまず、ミツバチは自分自身を含めたあらゆる存在者が現実に存在している(眼前存在している)ということを理解することはないし、それが問題になることもない、と主張する。しかし、通常のミツバチは現に一定の蜜を吸えばそれを止めて飛び立つ。つまり、ミツバチはやはり蜜と或る種の交渉を持つのである。しかしそこでは、何らかの液体が消化器を満たすことによって吸うという行動が抑止されるのであって、「個体としてのミツバチ」と「餌としての蜜(あるいは在りかとしての花)」の間の関係は存在していない。<(串田前掲書:114)

人間は言語を使って認識を行い、それが人間にとっての世界を構成します。しかし、そのようなやり方では常に世界は部分的にしか立ち現われません。ここで、他の動物が言語を持つかが問題の焦点なのではなく、人間がその存在の根本においてどのようなものであるのか、その在り方がどんな可能性を決定的に欠いているかが要となっています。  ここであらためて、深い退屈という根本気分に立ち戻るなら、退屈の根柢において、ある語り得ない深さが立ち現われるということ、そこにこそ、わたしたちがあらかじめ失っている世界の全体性の気配がかろうじて漂っているのだと言えるのではないでしょうか。

 

5.

ロラン・バルトは、こう書いています。 >快楽[plaisir]のテクスト。それは、満足させ、心をみたし、幸福感をあたえるもの。文化から生まれて、文化と縁を切ることなく、読書の「快適な」実践にむすびついているもの。悦楽[jouissance]のテクスト。それは、喪失の状態にするもの。不安定にするもの(おそらくはある程度うんざりするまで)。読者の歴史的、文化的、心理的基盤を動揺させ、読者の好みや価値観や記憶をゆるがすもの。言語との関係を危機におちいらせるもの。<(ロラン・バルト「テクストの快楽」=石川美子(2015)『ロラン・バルト』,中央公論新社:116)

ここでは悦楽的なテクスト体験が、わたしたちの日常の言語を揺らがすものであるとされています(※1)。そうであるなら、快楽のテクストはその先にある、語り得ざる何かを示唆するものと言えるでしょう。

 

※1.この意味での「悦楽」は、”Sense of Wonder”としての科学体験によく当てはまるように思われます。正確には、科学体験は悦楽の一種であり、その意味で動物園は悦楽的であり得る、あるいは科学的な場としての動物園の楽しみは悦楽的であるべきだ、ということになるでしょう。

 

バルトの語る快楽を、ハイデガーが示した深い退屈をそのまま享受している状態とすることも、あながちこじつけではないように思われます。ハイデガーの論旨に従う限り、それはバルトの、ひいては言語に囚われた人間存在の見果てぬ夢であり続けるわけですが。

ちなみに、フランス語の”récréation”には「娯楽」というをあてることが出来るようです。
あるいは、さらにいま一度「娯楽」を英訳するなら、そこには”recreation”と併せて”amusement”という含意が登場します。
これらの意味で娯楽ということばを使うなら、あらためてレクリエーションとは何かを問い返すことが出来るでしょう。
動物園や水族館の持つ楽しさをレクリエーションとすることは、それらの園館をアミューズメントとしての娯楽施設と性格づける流れを孕んでいます。また、再創造(re-creation)されるのは何かと問うなら、それは当たり前化された日常にほかならないでしょう。しかし、来園者が素朴に楽しみ、自分たちが持ち合わせる動物観、動物へのイメージを温存・強化することは手放しで肯定できるでしょうか(※1)。

 

※1.現在、日本動物園水族館協会は、以下のような発信を行っています。
>楽しく過ごしながら、「命の大切さ」や「生きることの美しさ」を感じ取ってもらえるレクリエーション<
これはレクリエーションを娯楽性とはちがったかたちで意味づけようとする苦心と捉えられますが、レクリエーションということば自体が社会的用法として持つ意味の重力圏や、日動水のこの言表自体が科学や学びとの関連付けの明示を避けている点など、発信としての実効性が問われるのではないかとも思われます。

 

たとえばナショナルジオグラフィックのドキュメンタリー『都会に生きるゴリラ(The Urban Gorilla)』を見るとき、かつて人間がゴリラを、その本来の生態を度外視してイメージ化してきた流れでは、時にゴリラは凶暴なものとして攻撃され(むしろ、そこでの人間こそがゴリラに対して凶暴だったのですが)、あるいは飼育下でもまっとうな群れや、その群れ生活が可能な施設も与えられないままであったのがわかります。つまり、人間の抱く動物観は、時に当の動物たちの生死や存亡にまで関わるほどの暴力性を孕んでいるのです。
1980年代後半からのアメリカにおけるランドスケープ・イマージョンと環境エンリッチメントの展開には、そのような不適切な状況の変革という意図もありました。その動きをリアルタイムで描いたのが前述のドキュメンタリーであると捉えることが出来るでしょう。
あるいはいま現在にあっても、わたしたち日本人がコツメカワウソを愛玩することが、飼育下でのかれらの消費的利用につながり、さらには密猟・密売によって野生のコツメカワウソに絶滅圧がかかっているという現状を顧みるなら、ここで述べたことは日本人にとっても無縁ではない、というよりも、日本人こそが徹底して自己批判するべき課題と考えられるのです。動物園・水族館は、そういう動きの中核部で責任ある態度を問われているわけです。

けれども、動物園や水族館がただ一方的に動物たちの代弁者のように危機を叫ぶことが適切かは疑問です。ただ深刻に語るのみでは独りよがりなのではないか。結果として、園館のそのような実践の一番の支持基盤であるはずの心ある人たちをこそ、ある種の「エコフォビア」(デイヴィッド・ソベル)に追い込むなら、むしろ逆効果で自滅的なのではないか。
ここから、既にいささか注記したように、動物園・水族館が悦楽的な展示・発信・教育普及活動を行っていく必要性が明確になります。楽しませればよい(娯楽第一主義)というのは無責任で犯罪的ですが(※1)、科学に根差した楽しさで、人びとの足もとから地球規模までの意識の向上を図る、それが園館の使命でもあるのです。

 

※1.娯楽においてはゲスト(来園者)は接待されるべき対象となりますから、娯楽第一主義は集客観光最優先主義となります。このような意味論的結託がある以上、「とりあえずお客さんに来てもらわなきゃ」とか「園館レベルでは動物に興味を持ってくれればいい。後はそれぞれに学んでくれれば」という類いのことを口走るひとは、永遠にそこにとどまると確信しています。

 

ここまでを整理すると、娯楽の手立ては動物園・水族館にとって理念を問わないテクノロジー・エンジニアリングにすぎません。そこでの目的は、いわば来園者相手に「うまくやる」こととなり、ポピュリズムへの流れ、あるいはポピュリズムの精神そのものです。
それに対して、サイエンスは一定の事実認識を行いますが、それは必ずしも「うまくやる」ためではありません。むしろ、そういう即物性を保留して、より普遍的な認識に至ろうとする営みと言えるでしょう。その時、サイエンティスト自身もそれまでの先入観を揺らがされる可能性に直面しますが、むしろそれを望んで楽しんでしまうところにこそ、サイエンティストの悦楽があります。
結果として科学的認識に対してはあらためて、それを基に何をどのように行っていくか、という問いが立てられることになります。サイエンスはそれ自体では倫理を含みませんが、一方で社会科学というものがあり得るように、時代や社会に規定された道徳に対してもサイエンスは再検討の余地を認めます。こうして、あれこれの思案が要請され、より主体的・理念的な目的意識が生じる可能性が膨らみます。そうやって構成される目的意識を、一般社会がすんなりと受け入れるとは限らない以上、サイエンティストは説得の営みを要求されます。相手の常識を揺さぶりつつ、しかも論理的な納得と知的な悦びをもって受け入れられることを望む。こうして、この実践は、相手の悦楽を目指すものと言えるでしょう。

 

そして、最後に快楽の領域が検討対象となります。

まず、倫理について考えてみます。先程も少し述べたように、娯楽や悦楽にまつわるテクノロジー・エンジニアリング・サイエンスは、それ自体としては倫理を含みません。前二者は社会に迎合する傾向を持つので、とりあえず、その社会の道徳に沿えばよいでしょうが、サイエンスの段階から、その物差しも揺らぎはじめます。かと言って、何でもありというわけにはいかない以上、あらためて「世の中、そういうものだから」というのとはちがう行動規範が求められ、ここに初めて、道徳(moral)の社会性・時代性を超えた倫理的(ethical)な思考が要求されることになります。これは哲学ないしは文学的な領域と言わざるを得ないでしょう。ここに至るのにハイデガーやバルトが参照されたのも故あることなのです(※1)。言語を含む社会や文化を自明としない、それゆえに解答があるのかも不確定ですし、ひいてはそもそも思考可能なことなのか、といった疑問も抱えながら、それでも行わなければならないのが、この領域です。

 

※1.もうひとつ、宗教ないしは信仰という領域が考えられますが、わたし個人に関しては、サイエンスの審級を超えて(文化批判・社会批判に堪えて)、自分の根拠となる宗教や信仰はいまだ見出されていません。
ひとまず、神と死は哲学上の重要問題だが、自分はあえて、それを扱わないと明言した大森荘蔵に倣うことといたします(『音を視る、時を聴く』、坂本龍一と相対しての講義、朝日出版社・1982年)。

 

あまりに抽象的で拡散したお話になっているで、ことを動物と人の関係に絞り込みつつ、ここで「生殺与奪」ということばを思い起こしてみましょう。
動物を殺すことが暴力なのはわかりやすいですが、生かすことについても、それが人間の側で一方的に決められる限りでは、動物への一種の暴力と捉えられるのではないかと考えられます。これは答えがあるかも定かでない際どい問いですが、それと向き合うことが倫理的な態度と考えられます。福祉水準の向上といったことでは片付かない、根源的な関係性の批判と克服が提起されていると言えます(※1)。
そして、そういう営みを支える力、あるいは「希望を語るな、希望を育てよ」(※2)といったことばが孕む力、それらが啓示・黙示として指し示す彼方こそが快楽の世界と言ってよいのではないでしょうか。

 

※1.動物と人の関係を思想的に検討する論者の中には、現状を動物と人の「戦争」と規定する者もいます(ワディウェル,D.J.『現代思想からの動物論: 戦争・主権・生政治』)。そういう強い概念を用いてみなければならないほどの、根深い問題があるのだと言えるでしょう。
人の動物に対する関係における生殺与奪の問題については、以下の拙論でも扱いました。
森由民(2018)「血塗られた手から立ちつくすひとへ:佐藤泰志「移動動物園」と動物たちの多数多様性」, 『動物観研究』No.23: 33-42

 

※2.これは今村仁司が『現代思想のキーワード』(講談社・1985)の末尾に記した「希望を失うな、希望を育てよ――これが現代思想の最後の言葉である」という一節をパラフレーズしたものです。終生、人類社会が根柢に孕む暴力性を社会哲学的に論じることに力を注いだ今村の仕事に鑑みるなら「希望を語るな」とすることの方が、より適切なのではないかとも考えます。

 

わたしの、ぼぉとするために励むという、我ながら倒錯した想いと営みは、この快楽へと無限の彼方でつながり吊り支えられているように思います。そして、少なくともわたしにとって、そこに向かっていく唯一の手段はことばを紡ぐことであると思っています。それは美しさへの憬れでもあります。
いっそ、余計な領域にまで考えや発言を広げない方が、ぼぉとする時間は増えるんじゃないかとも思いますが、それでは「ぼぉ」は快楽ならぬ娯楽、レクリエーションにとどまってしまいます。
>戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。<
吉田健一は「長崎」と題した短文にそう記しています。耳障りのよいことばのようでもあり、あるいは上流の生まれの人の気楽な発言とも受け取れるかと思います。しかも、この文章で吉田は長崎の原爆の悲劇がいつか忘れられるべきだと主張しています。普通に考えれば、道義的批判を受けても仕方のないもの言いでしょう。
しかし、わたしは吉田がこの忘却を時間経過による自然消滅といったかたちで想い描いているのではないと受け止めています。むしろ、彼自身が現状においては、そして、その延長線としての未来においては、そんな忘却が許されないことを深く認識しているのではないでしょうか。そして、忘却が不可能であることを含めての全体を、彼我もろともの現代の桎梏と捉えており、だからこそ不可能な忘却とそこに向けられてこそ良しとされるはずの美しさの命題を掲げているのだと考えるのです。ここにも現状肯定的で妥協的な希望を語らず、根底からの乗り越えを目指し続けて希望を育もうとする意志の力、文学の志を感じるのです。